Architect
設計者 白井晟一
明治38(1905)年、京都に生まれた白井晟一は、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)を卒業後渡独し、ハイデルベルク大学及びベルリン大学において近世ドイツ哲学を学ぶ傍らゴシック建築についても学びました。
昭和8(1933)年、約6年間のドイツ留学を終えた白井は帰国し、哲学や美学の道を選ぶことなく「河村邸」、「近藤邸」、「歓帰荘」の設計を皮切りとして建築家としての道を歩み始めます。遺作となる「雲伴居」まで数々の作品を遺した白井は、高村光太郎賞(造型部門)、建築年鑑賞、日本建築学会賞、毎日芸術賞、日本芸術院賞を受賞しており、これらは建築専門誌のみならず一般的な新聞・雑誌にも取り上げられるほどでした。
建築家としての面が有名な白井ですが、自著を含め多くの装丁デザインを手がけており、特に株式会社中央公論新社の元社長・嶋中雄作(故人)とは知己の間柄であったため、同社が発行している新書「中公新書」や文庫「中公文庫」のカバーを外した時に現れる鳥が描かれた装丁は、未だ白井がデザインしたものが使用されています。
書家としても知られており、顧之昏元と号して東京などで幾度か個展が開かれ、「顧之居書帖」を遺しています。
代表的な建築作品
ここでは白井が積極的に発表したもの、賞の対象となった作品の一部を紹介いたします。
静岡市立芹沢銈介美術館(石水館)
静岡市立芹沢銈介美術館は昭和56(1981)年に白井晟一の設計により建てられた美術館です。松濤美術館と建てられた時期が近いため、外壁に使われている花崗岩(紅雲石・韓国産)、館内でひときわ目立つ噴水、光天井として用いられているオニキス、調度品に至るまで類似しているものが数多くあります。
松濤美術館は渋谷区松濤というよく知られた高級住宅街に位置していますが、静岡市立芹沢銈介美術館は弥生時代の遺跡として有名な登呂遺跡がある登呂公園の一角に建設されました。建築として類似している箇所が数多くありますが、市街地に存在している松濤美術館と都会の喧騒から離れた静岡市立芹沢銈介美術館では、印象が異なるため両館を訪れて比較してみると面白いかもしれません。