小堀四郎

1986年7月29日(火)~1986年9月7日(日)

小堀四郎は孤高の画家といわれる。その故は、画業の大半を画壇から離れ、良き夫人と良き友人の間に育くまれ制作を続けて来たからである。小堀四郎は明治35(1902)年、愛知県名古屋市の漢学者の家に生まれた。愛知一中卒業後、東京美術学校西洋画科に進む。在学中に安田稔の摸写、レンブラント「兜の男」を摸写、後の渡仏中の摸写制作の手始めとする。卒業後、昭和3(1928)年に渡仏、ルーブル美術館でレンブラント「ベッサベ・オー・バン」、コロー「青衣の女」、ドーミエ「洗濯女」、「クリスパンとスキャパン」などの摸写を手掛け、西洋油絵の正統技法を身につけ、その延長上で「赤衣の女」、「ブルターニュの男」などの作品を残す。帰国後、一時帝展にも出品するが昭和10(1935)年、松田文相の帝展改組から美術界が混乱するのを見て失望、藤島武二の奨めにより画壇を離れ昭和9(1934)年、藤島武二の媒酌により、森鴎外の次女杏奴と結婚。以後は年1回、美校同期の学友と結成した上社会にのみ出品することとなる。
 昭和15(1940)年頃から、東洋の精神的なものにひかれ、東北地方に目を向ける。昭和20(1945)年からは戦争による疎開をきっかけに、蓼科に一人移り住み、昭和30(1955)年まで、周囲の自然に親しみ、その風景を描くことになる。この時の作品に、「高原の夕陽」、「斜陽」、「諏訪湖の夏花火」、「秋の星」などがあり、凝縮した孤独と、それを包み込む母なる自然との、混然一体となった融合が面白い。色彩も穏やかで温く、人々の内に潜む善良な意識を捕えて離さない。帰京後、東北・北陸地方に旅し、その地に在る題材を描き続ける。「黒湯温泉」、「恐山の巫女」などがその作品であるが、色調も暗く激しい部分と、燃え盛る火の様な情熱的な部分とが同居し、ダイナミックな画面を作り上げている。日本に残る土着的な風俗・精神に強くひかれた結果なのであるが、そこに一種の寂漠感を見て取ることも出来る。昭和51(1976)年東京大学イラン・イラク学術調査団の発掘に立会い、その地で見た風景を、「人生とは」、「無限静寂、信、望、愛」で描く。これは、この画家が最後に辿り着いた、自然と人生に対する畏敬と愛情の集約的成果であり、人々の心を捕えて離さない、強くしかも澄んだ意識に裏付けられた作品である。

展覧会情報

会期 1986年7月29日(火)~1986年9月7日(日)
入館料一般200円 小・中学生100円
休館日第2日曜日及び他の週の月曜日 祝日の翌日
主催 渋谷区立松濤美術館
併催 特別陳列 脇田愛二郎
展覧会図録

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完売