前田寛治

1988年4月5日(火)~1988年5月22日(日)

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本展は大正から昭和初期にかけて活躍し、日本近代美術史に輝かしい足跡を残した前田寛治の芸術を、代表作を含む生涯を通した作品で紹介した。東京美術学校在学中の初期の作品から絶筆まで油彩画60点、素描21点を陳列した。
当時の多くの若い画家がそうであるように、前田寛治も東京美術学校を卒業すると間もなく渡仏する。パリは華やかなエコールド・ド・パリの時代であった。滞仏中は、ゴッホ、セザンヌの影響から次第にアングル、クールベに惹かれてゆく。多くの日本からの画学生が新しい傾向を取り入れてゆくのに対し、前田寛治は古典的写実的な表現を追求してゆく。西欧絵画の造形的な基盤であったこうした絵画に眼を向けた者は数少なかった。
約2年半の滞仏の後、帰国した前田寛治の活躍にはめざましいものがあった。帝展で特選となり一躍新進画家とし脚光を浴びる。一方で、帝展の環境にあきたらずパリ時代に親交を結んだ仲間たち、里見勝蔵、佐伯祐三、児島善太郎、木下孝則と「1930年協会」を結成し中心的な役割を果たす。また、「前田写実研究所」を設立し後進の指導にあたると共に、『中央美術』、『美之國』といった雑誌に評論を展開してゆく。
大正末から昭和初期にかけては日本近代洋画が激しく揺れ動いた時期であった。フォービスム、キュビスムなどの吸収、前衛美術の著しい台頭、さらにはプロレタリア美術の席捲といった様々な様式が錯綜した時代であった。こうしたなかで、前田寛治は写実理論を展開し、時代を先導していこうとしていた。
前田寛治が後世に与えた影響は彼の存命当時の華々しさから比べるとむしろ物足りない気さえする。それは彼が33歳という短命の故であるのか、あるいはその後の時代が寛治を必要としなかったのか。精根をかけて作りあげた「1930年協会」は彼の死と共に消滅し、これを引き継ぐように「独立美術協会」が設立される。日本的フォービスムの誕生とされるこの協会がその後続いてゆくことを考えると、前田寛治が目指したものは日本人の資質に合致しなかったのかも知れない。事実、寛治自身でさえもがフォービスム的要素を多分に有している。そうした矛盾こそ彼の魅力であり、時代の流れに反逆した一個の個性だったというべきなのだろう。

展覧会情報

会期 1988年4月5日(火)~1988年5月22日(日)
入館料一般200円 小・中学生100円
休館日4月10日(日)・18日(月)・25日(月)・5月6日(金)~11日(水)・16日(月)
主催 渋谷区立松濤美術館
展覧会図録

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