中川紀元(明治25(1892)年-昭和47(1972)年)は、ある意味で、近代日本の洋画家として典型的な生涯を送ったといえるのではないだろうか。
明治25(1892)年長野県辰野町に生まれ、白樺派の時代に芸術を憧景し、洋画にひかれる青春時代を送った。一方で、父が漢学者で塾を開いていたこともあり、自身、漢籍に親しんで育った。生糸産業の隆盛で地元には活気があり、有志の人々の援助を受けて、渡仏。パリを中心に約2年間滞欧した。この間、大胆に単純化した線描と明るく平面的な色使いの画風をつかみ、それまでの印象派風の作風から抜け出している。中川の滞欧作は、二科展に送られて大きな評判を呼んだ。そして現在も、この時期の作品が彼の代表作と考えられている。
帰国した中川は、洋航帰りの洋画家が誰しもそうであったように、日本に住み続けながら欧州で獲得したものをどのように発展させるか、について試行錯誤した。啓蒙的な著作を
出版したり、「アクション」設立に参加するなど、華やかに活動を開始したのだが、「アクション」は短命に終わって中川は二科に残った。大震災後に、“バラック装飾社”を作るなどして社会的な活動と美術を結びつけようとした試みも、挫折した。制作においても、立体派の手法を独自に翻案して日本人の人物像に生かす試みをしたのだが、中川は油彩画に行き詰まりをかんじて、日本画を始めたりする。この、大正末期から戦前までの迷いの多い時期は、現存作も少なく、よく知られていなかったが、実際には意外に質の高い制作時期だったことが、今回の調査で明らかになった。
戦後は、1960年代初頭に、墨絵の筆法をとり入れた枯淡な味わいの画面で、再び独特の画風を作り出した。油彩画に、東洋画の技法と精神を溶け込ませようと努めてきた、帰国以来の中川の長い画業のひとつの到達点がこの頃のものであろう。
中川は、今までマチスやフォービスムとの関係でのみ、滞欧作が論じられてきた程度で、その屈曲の多い画業全体を見直す機会のほとんどなかった画家である。
本展は、中川の生誕地である町の、辰野町郷土美術館と共同の企画展である。出品作75点に加え、焼失などで展示不可能な39点の作品の図版を参考として展示およびカタログの挿図として添えた。
展覧会情報
会期 | 1992年8月5日(水)~1992年9月13日(日) |
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入館料 | 一般200円 小・中学生100円 |
休館日 | 8月9日(日)・10日(月)・17日(月)・24日(月)・31日(月)・9月7日(月) |
主催 渋谷区立松濤美術館 |
展覧会図録
完売