三木富雄

1992年12月2日(水)1993年1月24日(日)

本展は三木富雄の耳をモチーフにした彫刻約70点とそれ以外のコラージュ、版画、デッサンなど約80点、併せて約150点を展示した回顧展である。
三木富雄(昭和13(1938)年-昭和53(1978)年)は、はじめアンフォルメルの影響を強く受けたが、篠原有司男らと読売アンデパンダン展に反芸術と呼ばれる作品を出品するようになる。昭和37(1962)年はじめての耳の作品を制作し、翌年に発表して以来、死去するまで耳を作り続けた。彼の耳は同時代の美術界のなかで高い評価を受けたにもかかわらず、マンネリと批判されることも多かった。ダダ的なジャンク・アートやコラージュを制作するなどたびたび転向を試みるが評価は芳しくなく、彼は耳に対する宿命的なものを感じていた。
三木の作品を戦後美術のなかで俯瞰するとき、きわめて特異な存在であることに気付く。それは、60年代を象徴する反芸術の中心的グループであるネオ・ダダ・オルガナイザーに参加しなかったことでもわかるように、ポップ的なもの、あるいはハプニングとは一線を画していた。彼の作品の根底にあるのはモノに対する偏愛と螺旋状に深まる暗い精神世界である。彼の造形世界は同時代とも、またその前後の時代ともうまくつながらない。強いて言うならば、ダダイズム以後の精神世界から生まれたものと言えるかも知れない。それゆえ彼は自作に対する説明の言葉を用意できなかったのであり、周囲はそれをひとつの様式としか観ることが出来なかった。そこに彼の絶望的な苦悩があった。
三木富雄は60年代を代表するもっとも重要な作家でありながら、いままで系統的に展示されたことはなかった。死の直後の81年の福岡市美術館で開かれたのが唯一の美術館での個展であり、その後は小規模のものが画廊で開かれたにすぎず、それらは作家を評価する上で重要なものであったが出品数は限られており充分なものとはいえなかった。したがって、40歳の短い生涯ながら制作した作品の多くはいまだ未発見であったり、その行動もまだまだ充分な調査はおこなわれていなかった。
今回の展覧会にあたり、経歴における新事実や、新たな作品が多く発見された。最初の耳である〈バラの耳〉をはじめ初期の耳の作品、映画『他人の顔』のセット、耳以外の作品も多く展示できたこと、さらに若い頃の行動や二度のニューヨーク滞在中の行動がある程度明らかになったことは成果であった。

展覧会情報

会期 1992年12月2日(水)1993年1月24日(日)
入館料一般200円 小・中学生100円
休館日12月7日(月)・13日(日)・14日(月)・21日(月)・24日(木)・28日(月)~1月4日(月)・10日(日)・11日(月)・18日(月)・19日(火)
主催 渋谷区立松濤美術館
展覧会図録

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完売